宇多丸 大関孝紀を追悼する

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宇多丸さんが2025年5月15日放送のTBSラジオ『アフター6ジャンクション2』の中で亡くなった大関孝紀さんを追悼。日本にヒップホップ文化定着に大関さんが果たした功績を話していました。

(宇多丸)ちょっとここでまあ、なんというかな? 個人的にちょっとある方の追悼を込めてというか、曲をかけたいと思うんです。ちょっとね、たまに訃報の話なんか、しますけど。皆さんが一般的にご存知の方ではないかもしれません。元はソニーのね、洋楽担当の方で大関孝紀さんという方がいらっしゃって。、僕ね、でもすごい……つい最近までずっと元気で、いろんな活動もされていて。ついこの間、僕はそれこそTBSのそこの前のところでばったり再会して。

「ああ、相変わらずお元気ですね」なんて話したばっかりで。結構皆さんも「この間、一緒に飲んでばっかりなのに」なんて。だからちょっと急な話ではあるんですけど、その大関孝紀さんという方。僕よりちょっとだけ年上の方がお亡くなりになってしまって。僕もどこかしらの葬儀のあれには伺おうと思ってるんですけど。まあ、いろんな活動をされてきた方なんですけど特に僕にとっては90年代の特にやっぱり前半いっぱいぐらいまででしょうかね? 要するに日本にヒップホップを根付かせようというような様々な活動をラッパーとしてもしてきました。

あるいはFRONT、後のBLASTとなるヒップホップ専門誌を立ち上げて、そこを通じてメディアを通じて盛り上げるみたいなことをしてきました。でもその前に、まあ音楽ライターとしても活動してたんですけど。どうやって日本の皆さんにヒップホップの良さみたいなものを伝えるか?っていう時にですね、90年代の初頭とか前半とかってまあ日本のヒップホップシーン、まだまだ量的にも質的にも全く充実はしきっていないので。やっぱり主にまあ、「本国」と言わせてもらいましょう。

アメリカのヒップホップをいかにしてその良さを紹介するか?っていう。まあアメリカ本国でもまだまだ、今のように商業的に主流を占めるようなジャンルじゃなかったというのもあってですね。まあ決して「売れる」っていう風にされているジャンルじゃなかった中で大関さんがソニーの中でラップ・ヒップホップの日本盤みたいなのを出す時にとても丁寧な解説と訳詞とみたいなのをつけて。あと日本オリジナルだけのボーナストラックをつけたり、とかみたいなのですごく尽力されていた方なんです。

ちなみにdj hondaさん。当時イチローさんとかがよくdj hondaさんの帽子とか一時期、かぶってましたけど。あのdj hondaさんとかを紹介するのに大関さんもやっぱりここで一役かんでいたりとか。で、僕はラッパーとしても活動しつつ、やっぱり音楽ライターとしてそもそもラップ・ヒップホップっていうものの本当の良さみたいなものが伝わらない限りは自分たちがアーティスト活動をしてても、自分たちがいいとしているものは伝わらないっていうのがあるんで、両方やらないとっていう意識があって、ずっとその音楽ライターをしてきた。

そんな中で、とにかく大関さんと結構、本当にしょっちゅう相談して。どういう風にやったらいいかとか、どういうアーティストをどういう風に出していったらいいか、みたいな。で、私がライナーを書かせていただいてとか。時には本当に一般層向けに、たとえば「歌詞がわからなきゃいけない」みたいなプレッシャーがすごくハードルになってるっぽいから「そういうことはないですよ」っていうことで初心者向けコンピレーションを作りましょう、みたいなのを一緒にやったりとかしてて。なので皆さん、多くの方、一般の方がご存知の方ではないにせよ、本当に縁の下の力持ち的な人だけども。

たとえばヒップホップの歴史……日本のヒップホップがこうやって広まって、今はもちろん文句なしにいろんな優れたアーティストが出てきて、実際に売れてる人もいて、みたいな素晴らしい状況なんだけど。ここに至るまで、要はいろんな人が細かくバトンを渡してきて、バトンをつないできてここに来てるんですよ、やっぱり。いきなりこうなったわけじゃないという中で、たとえばいわゆる作品、アルバムとかを見てただけでわかんないこととして僕はよく、FRONT/BLASTなどの専門誌がこれだけのこと果たしていて、それを抜きにヒップホップの歴史を語ってもあんまり意味がないとか、ぐらいのことだと思うんですけど。

それと同じぐらいか、それ以上にやっぱりたとえばレコード会社、ソニーという大組織の中で戦いながら、そのヒップホップっていうのをすごくちゃんとした形で紹介しようとした大関さんのような人がいて。そういう人がいるからたとえば輸入レコード店とかがそんなに豊富にあるわけではない地方とかで、そのヒップホップの情報をそこから、正確な細かい情報がちゃんと伝わるようになったりとか。

そして、それを聞いた人たちがまた何か革新を起こしたりとかってことがあるわけで。やっぱり実は大関さんみたいな心あるレコード会社の人が日本のヒップホップシーンで果たした役割、これもちゃんとあんだってことを僕がここで言わないとたぶん公のメディアでは残らなかったりすると思うので、ちょっとぜひ言わせていただきたかったです。

大関さんのような人がいたから頑張れた

(宇多丸)大関さんがいなければ僕もあんなに頑張れたかわかんないっす。ヒップメディアを立ち上げるにあたって、ソニーとかにこれだけの味方がいるっていうなければ……でしたし。何より大関さんと一緒にいろいろたくらむのは本当に楽しかった。たとえば、ちょっと今日これから1曲かけようと思うんですけど。大関さんといろんなアーティストを紹介するライナーとかを書いてきたんですけど。特に「大関さんと」っていうと僕が思い出深いのはやっぱりビートナッツというグループです。

結構長い期間っていうかね、今に至るまで活躍しているニューヨークのプロデュースチームであり、ラップグループなんですけど。彼らがですね、最初はRELATIVITYというレーベルに所属していて。で、RELATIVITYってそれまではロック中心のレーベルで。で、このビートナッツ前後ぐらいからヒップホップに力を入れ出してって感じで。で、大関さんと「RELATIVITY、すごくいいアーティストも所属しているし。特にこのビートナッツの作るサウンドであり作品というのはめちゃくちゃあのかっこいいし、日本人にもものすごくこの良さっていうのは伝わるから、ビートナッツは特に力を入れて紹介しよう」みたいなのもあって。

で、後にはビートナッツ、僕らRHYMESTERと一緒に曲も一緒に作りますから。いろんなアーティスト、いますけど。アメリカのアーティスト。彼らはなんていうかな? すごく日本のシーンとかにもめちゃくちゃ理解があるっていうか、とってもいい最高のやつらで。そこをつないでいただいてもやっぱり大関さんの力もあるし。みたいな感じで大関さんを追悼するには僕的にはこの1曲かなということでちょっと曲をかけさせてください。1994年、ザ・ビートナッツの最初のフルアルバム。その前にミニアルバムを出してましたけど。ファーストアルバム、セルフタイトルの『The Beatnuts』に収録されている文句なしの90年代東海岸ヒップホップを代表する名曲中の名曲でございます。

曲の中でね、「俺たち、いろんな場所で人気があるぜ」っていう中でちゃんと日本がそこに入っているのもひょっとしたらこれ、大関さんとかのこういう尽力の力もあったりするかもしれませんね。ということでお聞きください。ザ・ビートナッツで『Props Over Here』。

The Beatnuts『Props Over Here』

(宇多丸)はい。1994年、ビートナッツのアルバム『The Beatnuts』から『Props Over Here』をお聞きいただいております。先ほど言いましたように大関孝紀さん。ソニーの社員として……90年代の特に初頭までにソニーとか、そういう大きな会社にいるちゃんとした大人で、ヒップホップラップ文化のちゃんとした味方なんかいなかったから。本当に大関さんがいたことは大きいんです。マジで。ということなんですよ。

なので日本のヒップホップの歴史みたいなのを追って語るという時にですね、年表と年表の間にそういう人がいるんだってことをちゃんと皆さん、どこかしら覚えておいていただけるといいかと思います。そしてこれからのいろんな活動でそういう人っていうののバトンを受け継いでるんだっていうことをわかっていていただきたいなという気持ちで曲をかけさせていだきました。

ビートナッツの曲、当時死ぬほど聞いていましたが、日本で彼らの音楽が受け入れられたのは大関さんのような方がいらっしゃったからなんですね。そんな方の功績をちゃんと語り継ぐ宇多丸さんの姿勢も最高です。RHYMESTERの『20世紀 (BEATNUTS Remix)』もこれで思い出して久しぶりに聞きましたがやっぱりかっこよかった!

RHYMESTER『20世紀 (BEATNUTS Remix)』

アフター6ジャンクション2 2025年5月15日放送回

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